リアルな教育

世相

 新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、多くのイベントが中止、延期を余儀なくされています。東京オリンピック・パラリンピックの開催が来年の夏まで一年間延長されるということが発表され、首都の封鎖も現実味を帯びてきています。
 一方で、先月末の休校要請から、ほとんど授業ができないままに春休みに入った学校は、地域による差はあるでしょうが、とりあえずは新学期から再開されるようです。
 “教育”に関わっている身としては、とても嬉しいニュースです。この休校期間中に、オンライン学習、遠隔授業など(これまでもいろいろ試行錯誤されてはきていたのでしょうが…)の環境、コンテンツ開発がぐーんと進みました。これは、今回の休校で学校に行けなかった人、いろいろな事情で学校に行けない人にとって、教育の機会が広がったこととして喜ばしいことです。この分野はもっともっと広がり、精錬されていくことが望まれます。いろいろな技術というのは、基本的に人々が幸せになるために開発され、精錬されていくものだと考えるからです。

今回の休校で光が当たったところ

 オンライン学習、遠隔授業、テレワークなどがぐーんと進んだ一方で、実際にたくさんの人が集まり、授業を含めた体験や対話を中心に行われる教育の意味、重要性も再認識されたと思います。
 私たちは、普段からインターネットを介した遠隔会議をしていますが、空間を共有しながらの会議とは違うことも実感しています。人の表情、視線、口調、ちょっとした仕草などは、その人のリアルな状況を映し出します。その場を構成する重要な要素だと思います。しかし、それらが共有されない、制限されるのは、その場で大切なモノが欠落していることだと感じます。
 自分がその場、そこでの対話に参画するために、したいことができないというストレスを感じます。逆に人と対面しない、空間を共有しないことでリラックスして、自然体でその場にいられるという人、そういう状況の方がパフォーマンスを発揮できる人もいるでしょう。今回のようにそれを望んでもいろいろな状況からそれが叶わないということも理解できるので、どちらが良い、悪いと言うことではないということは強調しておきたいと思います。

教育を取り巻く気になる話題

 今回のコロナウィルスの件で学校、教育というところに起こった話題の中で、私が気になったのは、オンライン授業や遠隔授業でも事足りる=学校に行って、みんなで顔をつきあわせて勉強しなくても良いんじゃない?というオンライン至上主義的な発想、極端な例では学校不要論にまで飛躍したことです。そこにはどうしても同意できない自分がいます。
 学校教育だけが教育ではないという考えには同意できます。家庭教育、社会教育、企業内教育、生涯学習などなどそれぞれのライフステージに沿って、教育は至る所にその機会が保証されています。
 学校(特に小中学校)は、教育を受ける権利を保障する場です。わざわざ集まったり、対話したり、切磋琢磨したりすることに大きな意味があるはずです。それぞれに求める、求めていないなど欲求の度合いに濃淡はあるにせよ、誰もが人と関わりながら生活をしています。人と集い、出会い、対話し、切磋琢磨、時には衝突、対立することも含めて、人間の本能的欲求でもあると思います。
 リアルに集ったり、出会ったりしなくても、SNSなどオンラインでの繋がりも以前よりリアリティを持ってきたという実感もあります。今ではネット上でしか会話したことのない人が私のリストの中にもたくさんいます。そこきっかけで、実際に会ったという人もいますし、そのきっかけを忘れてしまうくらい今ではリアルに深くつきあっている方もいます。10年くらい前には想像もできなかった人間関係、繋がり方です。

権利と義務

 学齢期になったら誰も何の疑いもなく学校に通います。しっかりと教育を受ける権利が保障され、満たされている状態が当たり前になっています。当たり前すぎて、その意味や価値が薄れていく(意味や価値自体が薄れるわけではなく、感じ取られなくなるという意味で薄れていく)そして、その権利を行使することすら忘れてしまっているのかもしれません。
 今回の休校、「やったー!春休みが延びたーっ!」といった反応をした子ども達も多かったと思います。先生にとってそれは大変複雑な思いでしょう。結局は長すぎて、外に行くこと、人に会うこともある程度制限されていたので、だんだん退屈になったり、窮屈になったりしたようですが…。
 教育を受けさせる義務を負う保護者には、ご飯作らなきゃいけない…、仕事に行けない…などという反応が多かったようです。実際に「教育を受ける権利」「教育を受けさせる義務」を気にした人たちがどれだけいたでしょうか?当たり前の日常が一変したのに…。
 そんな中で、オンラインに切り替えれば学校の代替になり得る、そちらでも良いと考え、またその恩恵を受けられるのは実際には一部の人たちだけです。学校が唯一の教育の場という人たちが大多数だと思います。家庭学習にしても、習慣ができていなかったり、環境がそれを許さないと言う人たちも多いでしょう。
 だからこそ、セイフティネットとしての学校があるのではないでしょうか?基本的には「行きたくなくても行かなきゃいけない」と思います。しかし、別の理由、例えばいじめ被害にあっているとか、先生のパワハラに辟易としているとか、それを我慢してまでいく必要はないとも思います。いずれにしても権利を制限されていることに変わりはありません。

教育産業、業界の反応

 教育産業という大きなくくりの中に私たちはいます。その中でオンラインに特化した、オンラインを得意とする業界があります。よくテレビコマーシャルに登場するような有名講師の授業を全国に配信している予備校や学習アプリ、オンラインの教育商材を作っている、扱っているような業界がそれです。この業界では、一気に利用者が増えたとの話も聞きました。業界の受け止め的には、コロナ特需のような感じでしょうか?
 一方、同じ教育産業の中にはオフラインの自然体験活動、外遊び、農業・林業・漁業体験などに特化した、オフラインを得意とする業界があります。ここには教育産業とは別のリクリエーションだったり、観光産業も含まれます。
 バス移動なども含め、集団で行われることも多く濃厚接触に気をつけなければならない、一方で屋外など風通しの良い非密閉空間で行われることが多いなどなど、今の状況をどう解釈したらいいのか迷っているというのが正直なところでしょう。

 受け手側としても、判断に迷うので、とりあえずやめておこう…というのが現在流れです。必要不可欠な教育というところにまで昇華していないとも言えます。オリンピック・パラリンピックが延期になったことが、その自粛ムードを助長する、援用する感じも漂っています。既存の概念では、如何ともしがたい状況が続いています。

 実際に予定されていた研修、合宿の中止や無期限延期もありましたし、場所の変更もありました。予定通り実施できたとしても、室内ではマスク必須、手指の消毒、お互いの距離を最大限確保して、定期的に換気して…気を使いながらです。

障壁は薄かった…

 私の感覚では、最大の障壁はマスクでした。まず、表情がわからない、そもそも顔が覚えられない。視覚情報の中でも、表情(プロセス)っていろいろなもの、特に内面(エッセンシャル)を表現するのだと改めて感じました。これは、遠隔で行われる会議でも、体調、やる気、話題に対する理解度、発言の意図など、その人の内面に関する情報が一つ遮断されてしまうのです。面と向かっている時より、推察することにエネルギーを使うことになります。

 マスクによって表情が見られないことで、リラックスできたり、自然体でいられたりという特性の人もいることは確かです。もしかしたら、そういう人は相当数いるのではないかとさえ思います。これもどちらが良い、悪いということではなく、受け入れるべき現実であるように思います。

 でも、みんながマスクをしているというのは、コミュニケーションに重大な障壁になると思いました。また、オンラインでの会議や学習の技術が飛躍的に発達し、離れているのにあたかもその場にいるような臨場感を味わえる時代がきても、取りこぼすことがたくさんあるように思います。もしかしたら、技術が取りこぼすことこそ、本質なのかもしれません。

 その本質を救いあげる(という表現が妥当かどうかわかりませんが)そんな仕事はこの先もなくならない。逆に求められるようになる、多くの人がそこに気づく様に思います。その時まで、実力を付けて待つ、いや待つのではなくこちらがどんどん表現し、発信し、その気づきを醸成していくことが必要だと、コロナウィルスの渦中、じっくりと考えさせられました。

この記事を書いた人

鈴木 浩之(Hiroyuki,SUZUKI)
有限会社エッセンシャルエデュケーションセンター Sales&Promotion担当マネージャー。
大学卒業後、世界的冒険教育機関であるOBSの指導者コースJALT受講、その後、OBSインストラクターへ。OEC、国立青少年教育振興機構、市議会議員等を経て現在に至る。1971年静岡県出身。
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