「あなたは誰の意志で行動していますか?」その答え、私の場合は「自分」です。こう聞かれた時、誰もがそう答えると思っていました。
しかし、最近感じた違和感から、もしかしたら「自分」以外の答えがあるのかも知れないと思うようになりました。
目次
■ 違和感
今、EECの事務所は研修施設内にあります。その施設では、この時期、様々な企業の新入社員研修が行われています。
施設の共有スペースでは、真新しいスーツを身にまとった新入社員の方々とよくすれ違います。すれ違う時もトイレで出会った時も「お疲れ様です」とにこやかに挨拶して下さいます。(この「お疲れ様です」の使い方も?ですが、少なくとも不快な気分にはなりません…)
しかし、夜になりスーツを着替えた新入社員の方々は、すれ違っても、出会っても「……」。共有スペースに集まり、ネットゲームをして、盛り上がっている様子。中には土足のフロアに直接座り込んでいる方もいます。
この違いは何なのか?スーツを脱ぐとオフになり、態度も一変してしまう、『働き方改革』が産んだ特殊なスーツなのか?と疑問と違和感を感じました。
■ 誰のため?何のため?
真新しいスーツを身にまとった彼らは誰のために、何のために、挨拶をしていたのでしょうか?
「勤務中はすれ違う人に “お疲れ様です” と言いましょう」と習ったから、言われるがままに挨拶をしている。
それが、スーツを脱いでいる時間=勤務時間外は挨拶をしなくても良いということに変換されているのだと想像します。
■ 行動基準
私たちがオリエンテーションキャンプや授業で関わっている小中高生にも、同じような疑問、違和感を感じることがあります。
“ふりかえり” では、「それが本音?」と尋ねたくなるような “キレイな作文” をしてくれたり、「こんにちは」と言うと「こんにちは」と返ってくるけれど、「久しぶり」と言うと「……」シーンとなる。怖い先生が前に立つと静かになるけど、優しい先生だと騒ぐ。「思っていても行動できないのはなぜ?」と問うと「グループに迷惑をかけてしまう」、「居残りしたくないからとりあえずやる」などなど。
誰かに言われ、その行為の意味を理解せずに形としてやっている、大人の機嫌を取ろうと大人へ向けて表現している、周りにどう映るかを気にしている…。
なかなか、「これやりたい!」、「これが好き!」、「こうしたい!」という “欲” や “好奇心” のようなものを感じません。
内発的に動かずとも生きていける(そっちの方が楽?な)現代社会において、行動基準や動機が外的要因であることは、その人にとってごく自然なことかも知れません。
行動基準や動機が外的要因であったとしても、その一つひとつを考え直し、自分で決め、納得しているならば、それで良いとも思います。しかし、個人的には何とも寂しさを感じます。自分の基準で自分らしい判断をして欲しいものです。
外的要因で動くことが多い彼らの背景などをもう少し知りたいと思いました。恐らく彼ら自身も気づいていない、抗うことが難しい何かがあるんだろうと思っています。
この記事を書いた人

- 有限会社エッセンシャルエデュケーションセンター EE事業部ディレクター。長崎純心大学在学中は、社会福祉の分野を専攻しながら、野外教育の指導ボランティアを経験。大学卒業後、本格的に野外教育の世界へ。1989年長崎県出身。
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